その木の近くにはいつも一人の男性の方が・・・
見て見ぬフリ
桜だけにサクラではありません
本当にいつもいるのです
今から30年前ぐらい 下校時いつも木に寄り添うように座っている男性がいました
気になったので母に聞くと「あまり見たらあかん!あの人たちはあの人たちなりに頑張っているねん だからあんまり見たらあかん」
理由もわからず ただ黙って見ないようにしてきました そこにいるのに一つレイヤーが入った感じで頭で消してしまう感じでした
それから15年後 阪急梅田駅にいたボビー・マクファーリンにそっくりの方に声をかけてる自分がそこにはいました なぜだろう 酔っていたのかもしれません コーヒー缶とタバコを彼にそっと手渡そうとしていました
彼のその真っ黒で荒々しい手にハイライトの箱が近づいた
その瞬間
バン!
手をはたかれたのでした コーヒー缶は思ったより遠くまでとばされていました
ボビーの目はこちらをギッと凝視してまったく動かないままでした
口をパクパクさせていましたが、都会の喧噪にもみ消されていたのか、ボビーの声があまりに弱々しかったのか全く聞こえません
でも
Don't Worry, be Happy
動揺していた私にはなんだか そういってるように聞こえました
そんなことがあってから
彼らは孤高の世界に住む住人で、こちらからもまたあちらからも接触を持たないことがすべてで それが正しい選択であるかのように振る舞うようになりました
視界ゼロの昨今、一寸先は闇
明日は我が身かもしれない 吾妻ひでおさんのように理解するべきなのか
よくわからんけれど
ただ
帰るところがあるっていうのは本当に幸せだなとつくづく思うのでありました
施しなんかを与える時ってタイミングが難しいよね。 「与える側」は「与えられる側」の常に上に位置するわけだから、彼のプライドが受け取ることを良しとしなかったんだろう。自分で言うのはいいけど、同じ事を他人に指摘されると癪に障る感じ… 「与える側」は「与えられる側」が自ら声を挙げる瞬間をただ待てばいい。
返信削除匿名さん いつもコメントありがとうございます
返信削除そうですね 相手のことを考えず一方的でした
江戸っ子気質ではないですが、しゃぁねえな と逃げ場をつくってあげて折れてもらうのも一つの案かもしれません
かつては「右や左の旦那様・・・」と言って施しをもらう路上生活者の方がいたそうですが今は見たことがありません
与えられる側が乾きを訴えた時は協力しようと思います 自分に置き換えて考えてみます